徳川家の側近 天海僧正によって開山された上野公園にある寛永寺。
江戸城の鬼門に位置し江戸を守ってきた寛永寺は徳川家の菩薩寺となり、15人の歴代将軍のうち6人がこの地に眠っています。
由緒ある寛永寺ですが、上野にありながらなんと京都の有名観光地「清水寺」を参拝する事が出来るのです。
上野でも京都を体感できる理由とは?
更に徳川家の埋葬地にまつわる秘密など、寛永寺に関連する驚きの情報をお伝え致します。
寛永寺の写経についての解説!
寛永寺では毎月第3土曜日に「開山堂(両大師)」にて写経会が行われています。
写経をする事で心が静まり自分と向き合える事から最近密かなブームになっている様ですが、そもそも写経はなぜ行われる様になったのかご存知ですか?
今から2500年前、お釈迦様がまもなく亡くなる時の事。多くのお弟子さん達はお釈迦様の教えを今後どの様に伝えていけば良いのか不安になっていました。
そんなお弟子さん達にお釈迦様は教えの伝え方を指示し、その中に「写経をする事」が含まれていたそうです。
この話を元に、天台宗を開いた天台大師智顗(ちぎ)さまは、お釈迦さまの教えの伝え方を次の様に解釈しました。
「お釈迦さまの教え」は教え自身で伝わるのではない。それを通じるようにするのは人であり、教えを伝える人を「法師」と言うのである。
「法師」というと「お坊さん」のイメージがありますよね。
でも天台大師さまによれば
仏さまの教えを伝える人は全て「法師」そして写経は仏さまの教えを広める「法師」の行いなのです。
心を鎮める目的で写経をされる方が多いと思いますが、本当の意味が分かるとまた重みを感じる気がします。
興味がある方はこれを機会に写経を始めてみませんか?
寛永寺で開催される写経会は事前の予約は必要ありませんので、ぜひご参加頂きたいと思います。
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寛永寺の清水観音堂!子宝に恵まれるご利益
1631年(寛永8)に天海大僧正によって建立された清水観音堂。
天海大僧正は1625年、二代将軍徳川秀忠から寄進された上野の山に平安京と比叡山の関係にならって「東叡山 寛永寺」を開きました。
比叡山が京都御所の鬼門を守るという思想をそのまま江戸に導入する事を意味し、江戸城の鬼門を守る意図があったのです。
そして京都の有名寺院を模した堂舎を次々に建立し、誰もが知る「清水寺」を見立てたものが清水観音堂です。
清水観音堂は高台の眺めが良い場所に造られており、“清水の舞台”を上野でご覧頂けます。
関東にお住いの方は中々簡単に京都まで足を運べないと思いますが、上野なら比較的簡単に参拝する事が出来ますよね。
清水寺より迎えた千手観音像!重要文化財
清水観音堂の御本尊は、清水寺より迎えた千手観音像。こちらは重要文化財に指定されています。
御本尊の脇には通称「子育て観音さま」が祀られ、子宝や子授け、安産などのご利益が授かれると大きな話題に。
観音さまにお祈りし、その想いが通じ子宝を授かった方々が無事に成長する事を願って奉納された身代わり人形が沢山供えられています。
そんな数々の人形の供養が、みなさんが可愛がってきた人形に感謝する人形供養に変化。
毎年9月25日14時から人形供養が行われています。
子宝を授かった方々が奉納される人形の数が多いという事は、それだけ強力なご利益を授かれるのかもしれません。
子授け札!究極のお札
更にどうしても子宝に恵まれたいと強くお望みの方には、究極のお札があります。
その名も「子授け札」
こちらのお札は誰でも手に出来る訳でなく、毎日決められたおつとめを行える方にのみ譲って頂けるそうです。
気になる毎日のおつとめとは:
- 子授けのお札と、一緒に同封された和紙に包まれた人形を仏壇か神棚、又は目線より高い場所に飾る
- 毎日コップ1杯の水を供え「おつとめ文」を7回唱える
- コップの水は半分飲み、残りは植木や庭木など根が生え成長するものにかける
以上の事を無事出産するまで毎日行います。
そして出産後はお札の中に入っている「子育御守」を取りだし子供の手に一度握らせ、そのまま保管。
体調など落ち着いた頃を見計らい、お札を持参してお礼参に訪れます。
これらの事が出来る方のみ譲って頂ける「子授け札」生半可な気持ちでは絶対にできない事ですが、ご利益を授かりたい方は覚悟のうえ手にされてみてはいかがでしょうか。
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寛永寺の根本中堂への特別参拝の日程!
これまで非公開だった徳川将軍御霊廟。
現在も通常は非公開の徳川霊廟を見る事が出来る特別参拝が定期的に行われています。
特別参拝は書面での申し込みが必要で日程も限られている為、募集開始からすぐ受付が終了してしまう程大人気。
あの教科書で学んだ徳川将軍の御霊廟を参拝できるなんて、とっても光栄な事ですよね。
特別参拝のスケジュールは午後1時40分までに根元中堂前へ集合。
午後2時からスタートし:
1.根元中堂
2.葵の間
3.徳川将軍御霊廟
- 常憲院殿(五代綱吉公)
- 有徳院殿(八代吉宗公)
- 温恭院殿(十三代家定公)
- 天璋院殿(十三代御正室)
この様な順の参拝になります。
担当の方が詳しく説明して下さるので、とてもためになるお話が聞けるのではないでしょうか。
所要時間:約1時間30分程。
特別参拝は大変人気があり狭き門と言えますが、機会があればぜひお申し込み頂きたいと思います。
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寛永寺の徳川浄苑のご案内!
寛永寺霊園として2016年10月に開園した「徳川浄苑」
徳川家の菩薩寺として知られる寛永寺が運営する「徳川浄苑」は都心の一等地に位置し、山手線内で最大級の規模を誇ります。
日当たりが良く霊園からはスカイツリーが見えるなど景色も抜群。
更にJR日暮里駅から徒歩5分と大変アクセスの良い場所に位置しているので、お墓参りにもとっても便利。
価格は永代使用料:3,000,000円・墓石+工事費用 1,800,000円の計4,800,000円から20,200,000円までと、場所や広さによって様々な価格が用意されています。
受付時間:現在午前9時から午後4時まで見学を受け付けておりますので、興味がある方はお問い合わせ下さい。
電話でのお問い合わせはこちら:0120-353-257
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寛永寺の埋葬地としての役割とは?
寛永寺は徳川家の菩薩寺とお伝えしていますが、歴代の将軍が眠る埋葬地はこちらのお寺だけではありません。
「日光東照宮」「増上寺」「谷中霊園」そして「寛永寺」と埋葬地が4カ所に分かれています。
なぜ埋葬地がバラバラになってしまったのでしょうか?
その理由を知ると政治的な狙いや思惑が見えてきましたので簡単にご紹介致します。
まずはそれぞれの将軍がどの場所に埋葬されているのか見てみましょう。
- 徳川家康 日光東照宮
- 徳川秀忠 増上寺
- 徳川家光 日光東照宮(輪王寺)
- 徳川家綱 寛永寺
- 徳川綱吉 寛永寺
- 徳川家宣 増上寺
- 徳川家継 増上寺
- 徳川吉宗 寛永寺
- 徳川家重 増上寺
- 徳川家治 寛永寺
- 徳川家斉 寛永寺
- 徳川家慶 増上寺
- 徳川家定 寛永寺
- 徳川家茂 増上寺
- 徳川慶喜 谷中霊園
みなバラバラである事が分かりますよね。
元々徳川家は浄土宗を信仰していました。その為徳川家康は浄土宗である増上寺に埋葬される事が普通ですが、家康は「自分が死んだら静岡の久能山に葬り、その一年後に日光に移してくれ」という遺言を残しました。
一度静岡に埋葬した後日光に移すなんて不思議ですよね。なぜ家康はそんな遺言を残したのでしょうか。
その秘密はそれぞれの位置関係にあります。
静岡の久能山から日光まで線を引くと、その途中には富士山が。富士山は古来より「不死」の象徴として信仰を集めてきました。
その不死の意味を込め家康の魂を久能山から富士山(不死)を経由して日光に祀る事で、神格化させる狙いがあったのです。
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神道と仏教の違いとは?神仏習合
でもここで疑問が。
日光東照宮はお寺では無く神社。
神社の宗教は神道で仏教ではありません。そもそも神道と仏教の違いご存知ですか?
仏教は2500年ほど前にお釈迦様がインドで悟りを開かれた事を起源とする宗教。
一方神道は日本古来からある、山や川などに神様が宿っているという考え(八百万の神々)をベースにした宗教。
ではなぜ家康は信仰していた仏教では無く神道の神社を埋葬地に選んだのかと言うと、江戸幕府を作った天下人として彼は死後「神」になりたかったから。
江戸幕府が繁栄する為に死後も威光を保ち、自信を神格化する必要があったのでしょう。
自分が死んだ後の世界までしっかり設計を立てた家康。考えると少しゾッとしますが、さすが天下を取ったカリスマ的リーダーの姿に感心してしまいます。
ちなみに三代将軍家光は東照宮と同じ敷地内の輪王寺に埋葬されていますが、家康の事を大変尊敬しており本人の希望でこの地を選んだ様です。
そして他の将軍達の埋葬地を見てみると、増上寺と寛永寺に分かれている事が分かりますよね。
徳川家の菩薩寺は増上寺。二代目将軍の秀忠は増上寺に埋葬されています。
でも家綱は寛永寺に埋葬されていますが、一体何が起きたのでしょうか。
その鍵を握るのは寛永寺を開山した天台宗の僧「天海」!
天海は家康の側近として幕府に深く関わり、家康・秀忠・家光は天台宗に帰依していました。そして天海が天台宗のお寺を作りたいと希望し、秀忠が現在の上野公園周辺の土地を与えたのです。
天海の希望は叶い、三代将軍家光の時代寛永2年に寛永寺が完成。徳川家の祈祷寺として機能しました。
少しややこしいのでここで一度整理すると:
- 徳川家は浄土宗でしたが家康・秀忠・家光は天台宗に帰依。
- でも家康は神格化の為に日光東照宮に祀られ、天台宗に帰依した秀忠は元々徳川家の菩薩寺である増上寺に埋葬。
- 同じく天台宗に帰依した家光は寛永寺を作り、法要を寛永寺で済ませた後日光の天台宗のお寺へ移されました。
寛永寺が誕生した事で四代目家綱、五代目綱吉は同寺へ埋葬されましたが、元々徳川家の菩薩寺である増上寺が黙っている訳はありませんよね。
増上寺と寛永寺が話し合いを行った結果、お互い徳川家の菩薩寺として交互に埋葬しようと言う事になったのです。
では最後の将軍である徳川慶喜はなぜ谷中霊園に埋葬されているのでしょうか?
こちらの霊園には慶喜や正室の美賀子をはじめ、側室や幼くして亡くなってしまった子供達が眠っています。
慶喜のお墓はとっても珍しい形をしていますが、同じ様な形のお墓がある事をご存知ですか?
それは昭和天皇のお墓です。天皇家は神道で知られていますよね。
なぜ慶喜のお墓が神道のお墓なのか?
- 明治維新によって幕府が崩壊し慶喜は一般人となりました。
- 慶喜は徳川幕府を終わらせる事になりましたが、江戸城を無血開城し政府に明け渡した事で新たな近代国家を成立させる為に一役買った結果に。
- 明治天皇から公爵の位を与えられそれに感謝した慶喜は天皇家へ忠誠を誓う為、仏教徒から神道への改宗を希望したのです。
それにより菩薩寺に埋蔵されず、明治政府が作った新しい墓地谷中霊園に埋葬されました。
少し長い解説になってしまいましたが、徳川家の埋葬地をめぐっては数々の秘密が隠されていたのですね。
そんな深い歴史に想いを巡らせながら、寛永寺を参拝されてみてはいかがでしょうか。
寛永寺のその他の詳細は以下の記事もご覧くださいね↓
天台宗の関東総本山として創建当時は江戸城の鎮護を目的とした祈願所となった寛永寺。 後に徳川将軍家の菩薩寺となり、現在全国各地から参拝客が訪れる大人気のパワースポットとなっています。 そんな寛永寺の宗派 ...
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寛永寺の写経や清水観音堂の子宝|根本中堂の特別参拝とは?徳川浄苑と埋葬地のまとめ!
神社やお寺を巡って心を落ち着かせるのも良いですが、関連する歴史を学ぶのも楽しいものですよね。
学生時代嫌々勉強した事より大人になってから興味を持って勉強する歴史は大違い。
きっとすんなり理解し ずっと記憶に残り続けるはずですので、ぜひ参拝の際は歴史についても触れて頂きたいと思います。